山鉾行事の歴史

亀山藩の保護のもと町衆の祭りとして執り行われてきた
亀岡祭の歴史と町衆の文化を学びます。

秋の深まりとともに、旧亀山城下の街角から祇園囃子の音が響いてきます。
口丹波の祇園祭として親しまれている亀岡祭は、鍬山神社の鍬山宮・八幡宮二社の例祭です。亀岡最大の秋祭りとして、大いに賑わいます。
いまその歴史を、亀岡市文化資料館発行『四季の祭りと年中行事』「亀岡祭山鉾行事」を引用して記します。

鍬山神社と祭り

樫舟『杉原家文書』上矢田町に鎮座する『鍬山神社(矢田社)』(祭神・大己貴神(おおなむちのかみ)は和銅2年(709年)に創祀されました。

社伝によると「亀岡〈亀山〉盆地がかって湖であった頃、諸国巡国中の大己貴神(大国主神(おおくにぬしのみこと)が黒柄山に神々を集めて相計り、一艘の樫舟に乗り込み、1杷の鍬で請田(保津峡)の峡を開き、肥沃な農地にかえた。里人たちはこの神徳を称え、天岡山の麓にお祀りした。」と伝えています。 年々、祭りも盛んでしたが、戦国時代に中断し、社殿も荒廃しました。

その後、戦乱もおさまり、世が落ち着きをとりもどすと、歴代亀山城主も積極的に神社の復興にのりだしました。岡部長盛が、慶長14年に亀山藩主に封じられると、翌15年には神社を復興し、今日見る形に造営しました。その後も歴代藩主は、神田を寄進するなど神社への保護を加えました。

祭りも、延宝年間(1673~81年)に再興されました。きっかけは、当時の水害・飢餓その他の災害は、氏神の祭祀をおろそかにしたせいだということから、古世の住人5~6人が発起してお金を出しあい、神輿2基を京都に発注、翌9年、神輿が完成し、再興されました。 また、慶安年中には樫舟が作られ、楽人が乗って神輿の渡御を囃したと伝えています。

現在の祭りの形態は、延宝八年(1681年)、当時の亀山郷長杉原守親が『丹波桑田郡矢田郷矢田社之祭法』を撰し、旧規に基づき復興されました。以後、これに基づいて祭礼が行なわれることになっていったのです。

『矢田社之祭法』等の文献によると、旧暦の9月25日を中心として、朔日(ついたち)の氏子域の入り口8箇所に榊を挿して結界を張ることに始まり、月末晦日(みそか)の神輿が御旅所から鍬山神社に戻る還御までの行事です。

現在は10月1日から26日にかけて行なわれ、10月20日は御出祭(おいでまつり)とも呼ばれ、鍬山神社より鍬山宮、八幡宮それぞれの神輿が御旅所へ出御し、25日の本祭りまで鎮座することとなります。

また、『引山記』によると、亀山藩主が参勤交代で江戸詰めのときは、神輿も御旅所までの遷幸だけで山鉾もでないひっそりとした祭りであるが、在国の時は賑やかな祭りとなり、神輿や山鉾も城中までも巡幸していたといいます。

このように亀山祭は、古い土地の祭神を母体としながらも、亀山藩主を始めとする支配階層の祭神をも合祀した鍬山神社の祭礼を媒体として領民との和合を図る中で、亀山藩の保護のもと町衆の祭りとして執り行われてきました。

山鉾と町衆の心意気

亀岡祭山鉾の最も古い年記をもつものは、三輪山の朱塗りの『三ツ之鳥居箱書銘』に、寛延2年(1749年)をみることができます。これは松平信岑が丹波篠山から亀山へ入封した翌年にあたり、これ以降寛延4年『稲荷山人形衣装箱書』、宝暦5年(1755年)『高砂山人形并山道具入箱書』、宝暦7年の『三輪山人形装束箱書』等々続くことから、この頃に山鉾が次々と建造されていったと考えられます。

さらに、前述の樫舟(船鉾)は、『船鉾再輿入用扣帳下書』や『矢田船鉾車書付入』等により、天保2年(1831年)には、竜頭船の上に唐破風様の御殿をしつらえた豪華なつくりに改修され、さらに風流化がすすんだことが知られ、これと相前後して亀岡祭の山鉾も舁山から曳山(鉾)への改修がみられるようになります。

難波山の巡行の様子一例として、難波山の建造記録である『引山記』によると、「町中がえいやえいやと引山になおすも神のちからなりけり」を掛け声として町内で十ヵ年にわたる質素倹約の規定を定めて出費を抑えたとされ、町をあげて鉾造りに専念した町衆の熱意の程を伺い知ることができます。

このようにして難波山は、寛政12年(1800年)に舁山から曳山(鉾)へと改修されました。そのほか八幡山や三輪山、高砂山なども、記録等により同様の経過をたどったことがわかっています。それ以外の鉾も、何々山と呼ばれており、鉾躯体内部の大きさに比べて御神体が大きいこと等から、いづれも舁山から曳山(鉾)に改修されたことによる結果と考えられます。

また、これら山鉾の造営及び改修に際しては、亀岡出身で京都で財を築いた人達からの寄進も見逃せません。たとえば、高砂山前懸を寄進した誉田屋両家(矢代氏)、稲荷山の御神体装束を寄進した京室町通下立売住の槌屋矢田氏、三輪山の御装束を寄進した京師住の木村氏等があげられます。京都の祇園祭に刺激を受ける中での、亀岡祭山鉾行事を支える町衆の経済的基盤の確立と豊かな美意識の高揚、また文化的成熟度を示しています。

現在各山鉾町で保存継承されている山鉾は曳山7基、舁山が4基、計11基です。またこれら山鉾を飾る豪華絢爛な懸装品には、中国や朝鮮、インド、更にイギリス等からの渡来染織品を始め、京都西陣の大型綴錦が多用されるなど、祇園祭に匹敵するとされています。まさに、動く美術館ともいわれる所以でもあります。

亀岡の先人の文化的成熟度とエネルギー、意気を継承し更なる発展を目的に、亀岡祭山鉾連合会並びに各山鉾町保存会で取り組んでいます。